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EASY GOING

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MOM

目が覚めた。人工的ではない光に受けた刺激が思いのほか強くて眉をひそめつつ寝返りを打つ。
寝返りを打ちながらもなにか大きな違和感を感じた直後、理解する。
…ここは部屋の布団の上ではない。
そう理解した瞬間、坂井はガバッ、と勢いよく体を起こした。
「…どこだ…ここ」
自分がいるのは確かに自分の部屋の布団の上ではなかった。芝生の上だ。
坂井は明らかに昼間の芝生の上にいる。どうやらそこで仰向けになっていたというのは理解できた。
呆然と自分の記憶を蘇らせようと、動きは止めたまま脳をフル回転させるが…別に昨夜はそんな深酒もしていないしちゃんと自分の部屋にいた。自分にはそんな夢遊病の気があるなんて聞いたこともない。
とりあえず、今の自分の現状把握だをするべきだと自分の落ち着いた部分が訴えてくるので素直にそれに従うことにする。
体の痛みや衣類の乱れは特にない。なので、本当に寝ているだけだったのだろう。
幸い、芝生も濡れているわけではないし雨に当たったとかいうこともない。
なによりも1番肝心なことはここがどこか?ということである。先程から感じる違和感。…そう、先程から自分は物凄い違和感を感じているのだ。
「…っ!」
周りを見渡して、その違和感を実感する。
自分がよく知っているあの街の独特の匂いや雰囲気とはまったく違う。海の匂いだってしない。
人々や車の喧騒、噴水の音、散歩なのか犬の鳴き声…自分の耳に入るもの、感じるものすべてに違和感を感じる。
呆然と固まっていたままの坂井は、この時やっと体を…正確には首を動かした。たぶん、音がでるとしたらギギギギというぎこちない音だっただろう。
振り返れば、そこに散歩中と思われる数人が行き交う姿が見えた。
この時、その違和感の正体がわかる。
「…外人?」
思わず声に出た。
見える範囲、いや…この公園らしき場所にいる人全員が…明らかに日本人ではない。
聞こえてくる言葉だって、聞いたことがない言葉ばかりだ。むしろ…ここは自分が暮らしているN市ではない。それどころか…ここにいる人や建物の看板を見て、ここが日本じゃないということがわかる。
夢かと思って古典的だが頬をつねってみるが、残念ながら痛い。
夢だと思い込みたかったが…感じるものなどからどうやら夢ではないと実感するばかりだ。
なによりも…グルルル…と空腹を訴える自分の腹に、これは現実だと実感させられる。
「と…りあえず…、ここどこだ」
幸い、靴は履いていた。TシャツにGパンという格好で不審者としてつかまることだけはなさそうだ。尻ポケットに財布の有無を確認したが、残念ながら財布は入っていない。と、いうか入っていてもきっと使えないだろう。
ここがどこかだけでも把握しようと、坂井はとりあえず歩き始めることにした。
芝生から降りて、どちらにいこうか思案し始めたときに少し離れたベンチに目が留まった。
正確には、ベンチに座っていた人物に。その人物を見たとたんに坂井は駆け出す。
「下村っ!」
ベンチに座って新聞を読んでいた青年はその大声に顔を上げると、猛烈な勢いで走ってくる坂井の姿にぎょっとする。
「下村っ!下村だよな!下村っ!」
「え…ああ、確かに下村は俺の名前だけど…、あんた…誰?」
猛烈な勢いでやってきた坂井に対して、最初はぎょっとしたようだが逃げるわけでもなく下村はきょとんとした様子で坂井を見上げた。
「なに言ってんだよお前!なんだよこれ!ここどこだよ!」
「なんだよはこっちの台詞だんだけど…あんた日本人?どっかで会ったことでもあった?」
「はあ?なにとぼけてんだよお前…って…え?」
首をかしげる下村の様子から、本当に自分をわかっていないように思えて坂井は言葉を止める。
知らない場所(と、いうか外国)、自分を知らない下村。この状況はなんなのだ?
徐々に忘れていたパニックが坂井を襲い始めた気がする。頭がぐるぐるし始めた。
急に黙り込んだ坂井を心配気に下村は見る。
「なあ、あんた大丈夫か?」
覗き込む下村の肩をガシッ!と坂井がつかんだ。パニックになる中、1つだけわかるもの。目の前に居るのはとりあえず下村だ。自分が今唯一わかる、そして言葉がわかる下村だ。
これを手放してはいけない。
「…なあ、1つだけ…まず1つだけ教えてくれ…。ここは…どこだ?」
「はあ?パリだけど」
気が遠くなった。
でも手放してはいけないという本能の命じるまま下村の肩を掴む力だけは緩めることはなかった。
******
あの後、このままでいてもどうしようもないのと坂井の腹が空腹を盛大に音として訴えた為、下村の提案でとりあえず下村のアパルトマンが近かったこともありそちらへ移動することになった。
途中のパン屋などで食料を買う時も不安の為か下村のシャツの裾を坂井はずっと掴んだままだったが、それにも特に下村はなにも言わない。坂井もなにも言わずにそのまま下村についていく。
下村のアパルトメントと自分の住んでいるボロアパートとの雰囲気の違いに一瞬面を食らいつつ、買ってきた、とりあえずコーヒーとサンドイッチで無事に空腹を収め、少し落ち着くことが出来た。
「で、あんた誰?」
「それマジか?」
「は?」
なんとか落ち着きを取り戻しつつあったので、下村が再度訪ねてくる。
坂井がその質問に信じられないような顔を見せた。
だが、下村の顔は坂井をだまそうとしているものではない。本当にわかっていないのだ。
先程のここはパリとわかった時のショックとは違うショックがじんわりと坂井は感じる。
下村が自分をわからない、そんな事にこんなにショックを受けるとは坂井自身も思っても見なかった。
「…坂井」
「え?」
「坂井だよ。坂井直司」
「へえ、坂井ね。うん、覚えた。俺は…まあ、あんた知ってるみたいだけど、下村敬」
自己紹介しつつ下村は手を差し出した。そのままつられるように坂井は下村と握手する。下村と自己紹介して握手する、なんか不思議な感覚だった。
握手する右手を見て、気づく。
「左手…」
坂井のつぶやきに下村が気づき、「左手がどうかした?」といいながら左手を見せた。
そう、左手を見せたのだ。義手ではない、左手を。
左手。下村の左手。パリ。自分を知らない下村。
そういえば、下村は自分と出会う前どこに居たといっていたっけ?
急に黙り込んだ坂井を不思議そうに下村は声をかける。
「坂井?」
「…なあ、下村…今…何年の何月何日?」
下村の答えに坂井は頭を抱えた。
どうやら、自分は…N市に来る前の…下村がパリに居たころに居るらしい。信じられないことだが…そうとしか思えなかった。
「…なあ、笑わないで聞いてくれるか?」
とにもかくにも、今の自分にはこの目の前の下村ぐらいしか頼る存在はなかったので、下村にこの自分でもよくわからない現状を伝えることにした。
信じるかどうかはわからないが…むしろ、自分が信じたくないのだが…。
うまく伝えられないながらも必死で話す坂井を、下村はそのまま何も言わずに聞いていた。
「つまり、あんたは少し未来の日本からタイムスリップしてきたってわけか」
「…信じるのか?」
「嘘なわけ?」
「いや…本当です」
じゃあ、いいじゃんと下村が平然と言う。思いのほかあっさりとこの自分でも信じられないような状況を受け入れる下村に改めて驚くと同時に安心する。
そうだ、下村はこういう男だ。いつもなら動じないその飄々とした姿に苛立つ事もあるが、こういう時は本当に安心する。
「んで、少し未来の俺は坂井と一緒に日本で働いてるってことだ」
「…あ、…ああ」
状況を説明するのに坂井は、下村は自分と同じ職場で働いている同僚としか説明出来なかった。まさか自分と付き合っているような状態だというのは…さすがに坂井の口からは言えなかったのだ。
「とりあえず…」
自分と下村の関係について思考をめぐらせている途中で声をかけられたので、坂井の肩がビクッ!と大きく揺れた。その挙動不審ぶりに下村は一瞬あっけに取られるが、すぐに笑い出す。
「ぶはっ…あんた、面白いよな」
「なっ…!」
そういえば、こんな状態になって下村が笑ったのを見たのは初めてだと気づく。ずっとどこかすましたような雰囲気とこの見慣れない街の雰囲気でどこかよそよそしいと感じていたのだが、笑う下村の顔を見ているとなぜか安心した。
笑った顔は坂井がよく知っている下村と同じだったからだ。
「まあ、とりあえずさ…しばらく落ち着くまでここに居ればいいよ。俺は別にかまわないからさ」
「あ、ああ…」
それはすごく助かる言葉だった。今、下村に言われるまでこれからの自分を考えたことがなかったのだ。
ここで下村に追い出されたら、一文無しで見知らぬ言葉も通じぬ外国に追い出されると考えるとぞっとする。
「ありがとな…」
「……あんた、笑うとかわいいよな」
「なっ!」
絶句する坂井をみて下村が笑った。馬鹿にするなと怒る坂井に下村がもっと笑う。
「でもさ、なんでこんなことになったんだろうな。なんか心当たりでもあるわけ?」
「そんなものあるわけ………あ」
こんな状況になった理由がわかるなら自分が教えてほしいと言いかけた時に、坂井の動きが止まった。
確か昨日…昨日のやり取りがめまぐるしく自分の脳内で回る。
昨日は確か正月の残りだということで下村と餅を食べたのだ。餅。そう、餅を食べたのだ。
以前、下村が餅を喉に詰まらせたということがあって、その事をからかいながら食べていたのだ。
「………」
「…坂井?」
急に黙り込んだ坂井を不思議そうに下村が覗き込む。坂井の顔色が真っ青だ。
「おい、大丈夫か?」
「…俺…」
思いついた結論に坂井はうなだれた。もう、心当たりはそれしかない。
だが、そんな理由でこんなことが起きるかは不明だが…非科学的だと否定したくてもすでに、今自分が置かれている状況を思えば…否定することも出来ない。
たぶんきっと…自分は…餅をのどに詰まらせたのだろう。
それが原因で…この状況が引き起こされたんじゃないかと思われる。
そう小声で言う坂井の言葉に、下村が一瞬言葉を詰まらせた。次の瞬間、盛大に下村が爆笑する。
本気で落ち込む坂井の横で、ベットの上で倒れこんで爆笑する下村。しばらくその状況が続くことになった。
「…俺、餅詰まらせて死んだのかな…」
「いやいやいや、今こうやって生きてるんだから死んだはないと思うけどね」
「……」
「おいおい、落ち込むなよ。考えてもどうしようもないんだら落ち込むなよ」
慰めるように下村が坂井の肩を叩く。
坂井の肩を叩く下村の手が震えてる。
「…ってか、笑ってるじゃねえかよ!おまえ!」
「だって、おまえ…!ぶはっ!」
「下村!慰めるときはちゃんと慰めろ!」
たぶん、1人でいたら色々な意味で落ち込んでいただろう。
下村がいることでそこまで落ち込まずにすむ、その事実が今の坂井にはありがたいと思った。
******
結局、翌日目が覚めたら元に戻るというような漫画的展開はなかった。
起きても…残念ながらそこはパリで下村のアパルトメントだったのでがっかりしたが、下村の寝顔が見えたのでそれで安心できたのはここだけの話だ。
その後も結局は戻る気配もなく、坂井はそのまま下村のアパルトメントに世話になっている。
何もせずに世話になるのは気が引けるので、下村が仕事や外出している間家事全般を引き受けていた。それくらいしか出来ないから…と思ってやっていたが、ここのところきちんとした食事を取っていなかったらしい下村は思いの外喜んでくれた。
最初は使い慣れない食材などで戸惑いを見せたがすぐに慣れ、最近では簡単なお使いや散歩ぐらいは出来るようになっていた。もちろん言葉はわからないままなので行き当たりばったりジェスチャーで対応になるのだが…人間やれば出来るものである。
数日こうやって下村と暮らしてみて気づいたことがいくつかあった。
自分がよく知っている下村と同じ下村なはずだが、時々見せる表情や雰囲気が違うときがあるのだ。微妙な違いだが…きっとこれが若さとかあの街に来て受けた影響の違いなのだろうと坂井は思う。
後、ここには下村以外に誰かが一緒に住んでいる気配が感じられた。
いや、今は下村しか住んでいないから、一緒に住んでいたのだろう。過去形だ。
そういえば、下村はパリに居たころにまりこという女と一緒に暮らしていたと話していた。
…では、今はまりこが出て行って、下村がN市にやってくる前の時期だということだろう。
「坂井っ!」
突然名前を呼ばれて、ダン!とフランスパンが驚きと同時に真っ二つになった。
「え…」
「何度も呼んだんだけど…大丈夫か?…刃物もったままぼんやりするなよ」
「あ、ああ」
どうやらフランスパンを切ろうとしつつ、考えに浸っていたらしい。
「飯、まだ?」
「もう出来る。もってけよこれ」
そういってすでに皿に盛り付けられてる野菜を坂井は手渡す。
いつの間にか下村の中でも食事を作るのは坂井という事で定着してるらしい。そう、いつの間にかすっかり二人で暮らすというのにお互い慣れていた。
食事中も坂井は先程考えていたことが頭から離れない。
今まで思いついていなかったが、いや、考えないようにしていたのかもしれないが…1度思ってしまったら今度は頭から離れなくなってしまった。
まりこがここを出て行ったのはいつ頃だろう?
まりこが出て行って下村が日本へ戻るのはいつ頃だろう?
その疑問を坂井は下村に対して口にしていいのだろうか?
ポチャポチャと何かが自分のコーヒーに入る音に坂井は我にかえる。
下村が平然とした顔で坂井のコーヒーに砂糖を投入していたのだ。
「ああああ!お前なにすんだよ!」
「なんか考え事してたみたいだがら、脳に糖分補給してやったほうがいいのかと思って」
「余計なお世話だよ!バカ!」
一口飲んでみたが、甘かった。甘さに眉をひそめつつ、食事中に…目の前に下村がいるのに自分の考え事に浸っていたことが申し訳なかったなと思う。
「…悪かったよ」
気まずげに坂井はつぶやき、もう1度その甘いコーヒーを飲んだ。
そんな坂井を見て下村は目を細めた。
あ、今の表情は知っている。優しく目を細めるその表情を坂井はよく知っていた。この表情は昔も今もこれからも変わらないものなんだなとぼんやりと思った。
「俺、あんたのそういう部分好きだよ」
「っ!」
突然の言葉に坂井が言葉に詰まった。
下村にそんな他意はないとわかっていても、つい赤面してしまう自分が恥ずかしくなっていたたまれなくなる。
今までと同じように下村といる時間。でも、今までとは少し違う下村といる時間。
つい、色々な照れやら感情を誤魔化すために一気にコーヒーをあおったが、すっかりそのコーヒーが甘い液体になっていたことを失念していた為、盛大に坂井はむせた。
その坂井をみて下村が笑う。
クソ、バカか俺は…!と内心自分を殴りたくなるが下村が笑うから、なんだかどうでもいいような気がしてきた。
そう、今までの下村と目の前の下村の小さな違い。笑うときの下村の中にほんの少し憂いの部分がないのだ。
「本当、久しぶりだよ。坂井がきてからだ。こんなに笑ったの」
その言葉に坂井はドキリとする。
このままだったら。
このままだったら、下村はそうやって笑っていられるのか?
「仕事…いつ辞めんのか…?」
坂井がポツリとこぼした言葉に下村が目を見張った。
ややしばらくの沈黙の後、ああ、と小さく下村が納得したように声を漏らす。
「そっか、坂井は未来から来たっていってたもんな」
未来から来たって表現、なんかどっかの猫型ロボットみたいだなと茶化したように下村は笑っていうが、坂井は笑わない。
諦めた様に下村は手にしていたマグカップを置いた。
「近いうちに辞表出そうとは思ってるよ。もう書いてはいるから」
「…どうしても辞めんのか?」
「ああ」
「まりこって女を追うために?」
「ああ」
頷いた下村の表情からは笑はどこにもなかった。真剣な目。もう決めている目だ。
意を決めた下村が止まらない事を坂井は知っている。
でも、わかっていても…。
「やめとけよ」
自分は知っている。この後に下村は仕事を辞めて、まりこを追ってあの街に来る。そして沢山のものを失うのだ。失うことを知っているのだ。
下村があの街に来なければ自分は、下村に出会うことはない。
ここで下村を止めたら、自分は未来を変えてしまうかもしれない。
「追いかけても報われないんだ。やめておけ」
それだけ言って坂井は立ち上がり部屋を出た。
******
自分はなにがしたいのか?なにが出来るというのだ?
たぶん、ああ言っても下村は自分の中で決めたことを辞めたりしないんだろうなと心のどこかで思っている自分が居る。でも、それを止めたい自分もいる。
あの部屋にまりこの存在を気づいたときからずっと思っていた。
自分は知っている。下村がまりこを追いかけても下村は報われない。それどころか下村は左手を失う。なにか大事なものを失ってしまう。それを自分は隣で見ていたのだ。
それを今、止められるかもしれない。
どうすれば止められる?たぶん、あの男に口ではかなわない。それはよくわかっている。
力ずくでわからせるか?…あの男はきっとそんなことでは屈しない。それは自分がよくわかっている。だから左手を失ったのではないか。
「クソッ」
もどかしさで苛立つ。苛立ちのまま歩いていたら、いつの間にか…最初に下村と出会って公園にたどり着いていた。
噴水の前に立ちながら水を眺める。ぼんやりと、ずいぶん海も見ていないなと思う。
原因はどうであれ、どうして自分が自分と出会う前の…まりこを追いかける前の下村のところに来たのか。
それはたぶん…下村がまりこを追ってあの街に来なかったら、自分と出会っていなかったらどんな風になっていたんだろうと心のどこかで思っていたからではないか?
こうやってあの街に来る前の下村が目の前にいる。止められるチャンスがある。せっかくそのチャンスがあるのに止められないであろう自分に苛立つ。
川中のように、宇野のように、叶のように、秋山のように…自分の知っている人たちのような何かがあったら、もっとうまく下村を止められるのかもしれない。でも、自分は自分でしかない。無力だ。
ううう…とうめきながら坂井は噴水の前にしゃがみこんだ。
周りの人の視線など知ったことじゃない。散歩中の犬にも吠えられたが、それどころではないのだ。
「耳から煙でそうだな」
隣からの声。自分がよく知っている声。
「あんた、考えることにむいていないんだからそんなに考え込んだら爆発しちゃうよ」
「うるせえよ…」
悔しいながらまったくもってその通りだと自分がよくわかっている。どこか茶化したその口調も腹立たしい。
噴水に腰掛け、下村が笑った。ちょうどしゃがんだ坂井のつむじが見える。
「なあ、なんでそんなに俺がまりこ追いかけるのやめさせようとするわけ?」
「……」
「まあ、大方まりこを追いかけて行った所で俺が報われないとかそういうのだろ」
思っていたより平然と下村はそう言った。驚いたように坂井は顔を上げて下村を見る。
目が合った。真っ直ぐとこちらを見ている下村の視線に坂井は耐えられず、すぐに目をそらす。
すぐにそれが下村の言葉を肯定してる様なものだと思ったが、今更どうすることも出来ない。
「ははっ、あんた本当に…」
気まずい表情の坂井を見て下村は笑った。
自分が想像しているよりもずっとあっさりした下村の反応に、坂井は拍子抜けしたような気分になってくる。
そんな坂井の思いを読み取ったかのように下村は言う。
「別に…もうまりこを取り戻そうとかそういうんじゃないんだよ。俺は知りたいんだ…。いや違うな…」
視線が坂井からどこか遠くへ移るのを、坂井は無言のまま見ていた。
「ただ…確かめたいんだよ」
「…なにを?」
「…そうだな…」
そう呟いたっきり下村の言葉は続かなかった。
その続きを思案しているのか、それとももう話すことはないのか…坂井にはその表情から読み取ることは出来ない。
確かめたい。あの時の下村もそんなことを言っていた。
ここにいる下村とは自分の下村とは違う。でも、自分の知っている下村とここにいる下村とは同じだ。
「それにさ、良いわけ?俺がまりこを追いかけていかないとさ、あんたには会えないんだぜ」
いつのまにか視線を坂井に戻し、下村が笑った。
そんなのはわかっている。最初からわかっている。
わかっていても、自分は…失わなくていいなら失って欲しくないと思っているからこそ、今こうやって止めようとしているのだ。この自分の葛藤が分かっていない下村に腹立たしさを感じた。
それを察知したのか、下村は肩を上げてみせる。
「別にからかっているわけじゃねえよ」
「俺はっ…」
「なあ、坂井」
坂井の言葉を下村がさえぎる。
「俺はさ、…またあんたに会いたいと思うよ」
坂井が息を飲んだのがわかった。
ゆっくりと下村が立ち上がって、坂井に手を差し出す。
「帰ろう、坂井」
「…どこへ?」
それは…あのアパートメント?それとも元にいた…自分の知っている下村の要る場所に?
下村は何も言わない。なにも言わずに手を差し出したままだ。
わかるのは、もう下村を止められないということだけ。
下村が確かめたいものなんて坂井にはわからない。
下村が自分に会いたいと言ったのは友情か愛情かなんてわからない。
なにもわからないのに止められないことだけはわかる。きっと、坂井だけじゃない。下村自身だってもう自分を止めることなんて出来ない。
「俺が…戻って、お前がまりこを追っていった先に俺がいても…そこにいるのはここにいる俺じゃないかもしれないぞ」
「坂井の割りに難しいこといってきたな」
「バカにすんなっ」
「会えるよ」
「…まず俺が戻れるかどうかわかんねえだろ」
「でも、戻るつもりでいるんだろ」
目を丸くして坂井は下村を見上げた。
すっかり下村を引き止めるのに思考が支配されていたが、下村を止められればそれでいいと思っていて自分が戻ることや戻れることなんて失念していた。
差し出される下村の手を見つめる。
「…左手も」
「…ん?」
差し出される右手だけじゃなく左手も出せといえば、下村は苦笑しつつ素直に左手も差し出してきた。
差し出される両手。
義手ではない左手。
自分のよく知っている左手はこの手ではない。
ああ、今頃アイツはどうしているだろう…そう思った時に初めて実感した。
「…帰りてえな」
そう呟いて、坂井は差し出される両手を掴み、立ち上がった。
下村のアパルトメントまで手をつないで帰った。いい大人二人が手をつなぐのは滑稽に見えたが気にしない。
下村の左手の温かさだけが坂井を泣きたい気分にさせていた。
坂井はそのまま俯いて呟く。下村に聞こえてなくてもいい、ただ言いたかっただけだ。
「俺も…またおまえに会えたらいいと思うよ」
届いたかどうかはわからない。
下村の返事はない。でも、左手がぎゅっと掴まれたのだけは感じた。
*****
目が覚めた。
…これと似た感覚を最近感じた気がするのだが、なにかが微妙に違う。
ああ、そうだ。光の刺激がそんなに強くないのだ。これは人工的な光だ。
「坂井?」
光をさえぎるように出来た影と自分を呼ぶ声に坂井は眉をひそめる。
逆光で顔がよく見えないが、よく知っている声。
「…坂井、気付いた?」
「…しも…むら?」
徐々にはっきりしてくる視界と意識。
何かが違う。見慣れない天井やシーツの感触。なによりも…窓が開いているのかそこから入ってくる風に海の臭いがする。
そして、目の前にいる下村が…
「あーーーーー!」
急に叫んで飛び起きた坂井に驚きながら下村はとっさにナースコールを押す。
その直後に廊下から山根が入ってくるのが見えた。…山根がいるということは、ここは病院だと言うことも理解する。
「ちょっと、何事?」
「坂井が目覚ましたみたいだから」
「…ずいぶんアグレッシブなお目覚めみたいね…アンタ何やったの」
「何もしてねえよ」
疑いの眼差しで下村を見る山根に下村が肩をすくめて見せた。
叫んだ後に呆然としている坂井を山根は心配げに声をかける。
「大丈夫?」
「…今日何年何月何日…」
「え…?ええと…お餅喉に詰まらせて倒れてから…3日くらい目が覚めなかったから心配したのよ」
「………聞いてねえよ、そこは…」
自分がこうなった原因はなんとなくわかっていたが、本当にそうだった事実を予定外に突きつけられ坂井はうなだれた。
しかも、視界の片隅で下村が笑いを堪えているのが見えたので…なおさら穴があったら埋りたい気分になる。
近くにあったカレンダーを確認する。
間違いない。自分は戻ってきている。
ここはあの数年前のパリではなく、今まで自分がいたN市だ。
何が原因でかはわからないままだが、とにかく、戻ってこれたのだ。
その後、念の為ということで検査等を含め1日引き続き入院ということになった。
その間に色々な人が様子を見に来ていたが、その都度坂井はこうなった間抜けな原因をみんなに笑われていたたまれない気持ちになる。なんの拷問なんだ…いっそ戻らなければよかったとすら思ってしまう。
…いや、そんなことを思ってはいけないというのは十分わかっているのだが…。
やっと退院の手続きが終わって迎えに来た下村と帰りにレナに寄る。
「…あ~…やっと帰れる」
「あ~、やっと坂井といれる~」
「バカか!お前っ!」
口調を真似してくる下村に拳を出すが、下村は笑ってその坂井の手を左手で受け止める。軽く突き出しただけなので下村の義手に当たっても痛くはなかったが…その感覚に坂井はそっと目を細める。
自分がよく知っている下村の左手の感覚。
コーヒーを見つめながら、あの時の…あのタイムスリップは夢だったのだろうか?と思うが、その割にはすごくリアルだった気がする。
それ以前に…多分夢じゃなかったと思う。
そう自分が思いたいだけなのかもしれないが…でも、夢じゃなかった。
目の前にいる下村はあの時からまりこを追いかけてきた下村だろうか?
この下村はあの時の坂井と過ごした時間を覚えているだろうか?もし覚えていたら…今までなにも言ってこなかったが、どうしてだろうか?
やっぱり、あの時とは違う下村だろうか?
ポチャポチャと何かが自分のコーヒーに入る音に坂井は我にかえる。
下村が平然とした顔で坂井のコーヒーに砂糖を投入していた。
「…なっ!下村おまえ!」
とっさに下村をにらみつけたが、その瞬間ハッとなった。
こんなやり取りに覚えがあった。
確か、下村はこう言うのだ。
「なんか考え事してたみたいだがら、脳に糖分補給してやったほうがいいのかと思って」
目の前でニヤリと笑って、下村がもう1つ砂糖をコーヒーに投入した。
ぽちゃんと落ちると同時に下村が坂井に口付けをする。
「お帰り、坂井」
END



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タイトルの「MOM」ですが…
「Mikan On The Mochi」すなわち、「みかんオンザ餅」。
…鏡餅です。
……「ホワイトスクエア」からずっと引きずっているものです。
2012年の1月インテで出した本でした。オオウフ。
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